宮沢賢治は少年時代、「石ッコ賢さん」と呼ばれるくらい鉱物採集に熱中していたようです。
神田小川町に、賢治が大正7年から8年、22歳頃に通った宝石店があります。
金石舎の創業は明治17年、「日本で最初の宝石店」といわれる宝石店です。
■金石舎の外観(明治17年)
賢治が興味を持っていた(かもしれない)カフスボタンについて、
また宝石、昔のカフスボタンの細工について、何かお話を伺えればと思い、
カフショップから徒歩15分ほどの金石舎を訪ねました。
賢治は当時、日本女子大の学生であった妹トシが病に倒れ、トシを看病をするために上京していました。
東京から書いた父への手紙に、自身の職業に関して書いており、その手紙によると
当初は宝石を扱う仕事を目指したようです。
具体的なプランとして
「一、飾石宝石原鉱買入およぴ探求
二、飾石宝石研磨小器具製造
三、ネクタイピン・カフスボタン・髪飾等の製造」等
をあげています。
そして金石舎には毎日のように通い、「見習いになりたい」と頼んだそうです。
金石舎の初代・高木勘兵衛は、岐阜県の火薬販売の家の出身。
トパーズを日本で初めて発見したことから「トパーズ勘兵衛」と呼ばれました。
大正天皇即位の際には、伊勢神宮に三種の神器(鏡・玉・剣)の一つとして水晶を奉納されたそうです。
■金石舎の外観(左から大正元年、昭和4年)
現在の金石舎は立派なビルになっており、ビルの最上階でお店を営まれています。
最上階フロアの玄関には、明治17年、大正元年、昭和62年に建てられた社屋や大正天皇に奉納した水晶の写真が飾られており、
近代的なビルの一室にも関わらず、時代を感じさせるた佇まいです。
金石舎5代目店主の千藤(せんどう)氏にお会いし、東京で有名な繁華街であった戦前の小川町、須田町、淡路町の様子や、
過去に3回起こったという鉱石ブームなど、興味深いお話を伺いました。
さらに、昭和初期に作られたカフスボタン、スタッドを拝見できました。
ひとつは、珪孔雀石のチェーン・タイプのカフスボタン。
黄銅鉱が酸化して赤茶色になった部分が多く、
緑色の孔雀石(マラカイト)や赤いインカローズとは違った趣があり、赤の濃淡が人間の肌の赤い部分を思わせます。
チェーンの先につなげられたバー(ボタンホールに通す部分)の長さは23mm程。
最初に見たとき、「これをシャツ袖につけるのは大変!」と思いました。
しかし、実際につけてみると、チェーンが細いため、思いのほか装着しやすいものでした。
童話『注文の多い料理店』に紳士が置いてきたカフスボタンは、こんな感じのものだったのかもしれません。
もうひとつは、14金にオニキス、真珠を重ねた、チェーンタイプのカフスボタンとスタッドボタンのセット。
当時の華やかな社交界が想像できるデラックスな逸品です。
また、現在も販売をされているというカフスボタンも見せていただきました。
ラピスラズリ、孔雀石、ガーネット、トルコ石、珊瑚、針水晶などで、
どれもしっかりとした台座にはめ込まれ、大きめの石の存在感がよく表現されています。
昭和初期のカフスボタンやシトリンなどの宝石、
明治から昭和にかけての金石舎の写真などを拝見し、
賢治のたどった道の断片にふれることができました。
東京で事業が出来なかったからこそ、作家としての賢治があったのかもしれません。
いや、もしも、賢治が希望していた宝石の製造・販売をしていたら・・・
カフショップの近くに宮沢宝石店の看板と賢治印のカフスボタンなどが
販売されるのを見ることが出来たのでしょうか?
★カフショップ公式サイト(ネット通販)
カフリンクス(カフスボタン)専門店カフショップ
http://www.cuffshop.com
神田小川町に、賢治が大正7年から8年、22歳頃に通った宝石店があります。
金石舎の創業は明治17年、「日本で最初の宝石店」といわれる宝石店です。
■金石舎の外観(明治17年)
賢治が興味を持っていた(かもしれない)カフスボタンについて、
また宝石、昔のカフスボタンの細工について、何かお話を伺えればと思い、
カフショップから徒歩15分ほどの金石舎を訪ねました。
賢治は当時、日本女子大の学生であった妹トシが病に倒れ、トシを看病をするために上京していました。
東京から書いた父への手紙に、自身の職業に関して書いており、その手紙によると
当初は宝石を扱う仕事を目指したようです。
具体的なプランとして
「一、飾石宝石原鉱買入およぴ探求
二、飾石宝石研磨小器具製造
三、ネクタイピン・カフスボタン・髪飾等の製造」等
をあげています。
そして金石舎には毎日のように通い、「見習いになりたい」と頼んだそうです。
金石舎の初代・高木勘兵衛は、岐阜県の火薬販売の家の出身。
トパーズを日本で初めて発見したことから「トパーズ勘兵衛」と呼ばれました。
大正天皇即位の際には、伊勢神宮に三種の神器(鏡・玉・剣)の一つとして水晶を奉納されたそうです。
■金石舎の外観(左から大正元年、昭和4年)
現在の金石舎は立派なビルになっており、ビルの最上階でお店を営まれています。
最上階フロアの玄関には、明治17年、大正元年、昭和62年に建てられた社屋や大正天皇に奉納した水晶の写真が飾られており、
近代的なビルの一室にも関わらず、時代を感じさせるた佇まいです。
金石舎5代目店主の千藤(せんどう)氏にお会いし、東京で有名な繁華街であった戦前の小川町、須田町、淡路町の様子や、
過去に3回起こったという鉱石ブームなど、興味深いお話を伺いました。
さらに、昭和初期に作られたカフスボタン、スタッドを拝見できました。
ひとつは、珪孔雀石のチェーン・タイプのカフスボタン。
黄銅鉱が酸化して赤茶色になった部分が多く、
緑色の孔雀石(マラカイト)や赤いインカローズとは違った趣があり、赤の濃淡が人間の肌の赤い部分を思わせます。
チェーンの先につなげられたバー(ボタンホールに通す部分)の長さは23mm程。
最初に見たとき、「これをシャツ袖につけるのは大変!」と思いました。
しかし、実際につけてみると、チェーンが細いため、思いのほか装着しやすいものでした。
童話『注文の多い料理店』に紳士が置いてきたカフスボタンは、こんな感じのものだったのかもしれません。
もうひとつは、14金にオニキス、真珠を重ねた、チェーンタイプのカフスボタンとスタッドボタンのセット。
当時の華やかな社交界が想像できるデラックスな逸品です。
また、現在も販売をされているというカフスボタンも見せていただきました。
ラピスラズリ、孔雀石、ガーネット、トルコ石、珊瑚、針水晶などで、
どれもしっかりとした台座にはめ込まれ、大きめの石の存在感がよく表現されています。
昭和初期のカフスボタンやシトリンなどの宝石、
明治から昭和にかけての金石舎の写真などを拝見し、
賢治のたどった道の断片にふれることができました。
東京で事業が出来なかったからこそ、作家としての賢治があったのかもしれません。
いや、もしも、賢治が希望していた宝石の製造・販売をしていたら・・・
カフショップの近くに宮沢宝石店の看板と賢治印のカフスボタンなどが
販売されるのを見ることが出来たのでしょうか?
★カフショップ公式サイト(ネット通販)
カフリンクス(カフスボタン)専門店カフショップ
http://www.cuffshop.com